ドミトリー・カザルリガ

エリザベータ・ステコルニコワとカップルを結成して1992-1993年シーズンより国際競技会へ参戦。1993-1994年シーズン、リレハンメルオリンピックに出場し、18位。結果は振るわなかったもののフィギュアスケート競技のカザフスタン選手として初めての出場であった。

1995-1996年シーズンには、ISUグランプリシリーズ(当時の名称はISUチャンピオンシリーズ)に参戦しスケートアメリカでは3位となった。1996年、ハルビンで行われた第3回アジア冬季競技大会で優勝し、同年の世界選手権でも自身最高位となる12位となったが、翌1996-1997年シーズンのスケートアメリカでの棄権以降は下降線を辿った。1997-1998年シーズン、2度目のオリンピックとなった長野オリンピックでは22位に終わった。直後の1998年世界選手権を最後にエリザベータ・ステコルニコワとのカップルを解消、のちに引退。引退後はアメリカを拠点にフィギュアスケートコーチ兼振付師として活動。

農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。農地解放ともいう。もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる(ただし帝国政府の考えた方針とGHQの改革内容には大きな違いがある)。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

アーサー王

5世紀末にサクソン人を撃退したとされる英雄アーサーは、ブリトン人(ウェールズ人)の間で古くから伝説として語り継がれてきた。アーサーの直系の子孫であるウェールズ人が残した『マビノギオン』はそれを現代に伝えるほぼ唯一の史料であり、華やかな騎士道ロマンスに彩られる前の比較的古い状態のアーサー王伝説を見ることができる。

アーサーの生涯がはじめてまとまった形をとったのは、1136年頃ウェールズ人ジェフリー・オブ・モンマスが書いた『ブリタニア列王史』においてである。『ブリタニア王列史』は歴史書の体裁を取っているものの、非現実的な部分が多くを占めており、今日の伝説上の人物としてのアーサー王のイメージはここから始まると言ってよい。以降、彼の作品とそれを基にしたアングロ=ノルマンの詩人ウァースの『ブリュ物語』(1155年頃)、それにウェールズ人と共通の文化を有するブルターニュ半島のブルトン人などを経由して、アーサーの伝説は西ヨーロッパ全体に伝播してゆく。

飽和水蒸気

沸点で蒸発した状態の蒸気を飽和蒸気(ほうわじょうき)という。飽和蒸気は、圧力の高い場合には沸点が上昇するため、温度が高くなり、気圧が低い場合には沸点が下がるため、温度が低くなる。

飽和蒸気を一定圧力下で加熱すると、過熱蒸気(かねつじょうき)になる。過熱蒸気は飽和蒸気よりも大きな熱エネルギーを持ち、飽和蒸気の温度以上の温度に上昇する。蒸気機関では、凝結水が発生しないなどの利点があるため、たとえば、蒸気機関車では、日本の場合、初代9600形(9580形)が最初期であるが、以降の中型以上の機関車はほぼ過熱式であり、国鉄制式機関車ではB20形のような特殊な例外を除き全て過熱式である。

ノモンハン事件

清朝が1734年(雍正十二年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。しかし、1932年(昭和7年)に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を境界と主張、以後この地は国境係争地となった。1939年(昭和14年)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展した。

エドモンド・ヒラリー

オークランド生まれ。翌年、父が養蜂業を営むためオークランドの南に位置するツアカウへ一家で引越す。幼少期は虚弱児で内向的な性格の持ち主であったが、蜂の巣箱を運ぶ作業の中で足腰が鍛えられ、高校生で身長は195cmに達する。長身に加え養蜂業の手伝いで心肺機能が鍛えられ登山家としての活動に適した体が作られたという。

ツアカウ小学校を卒業後、オークランドの名門オークランド・グラマー・スクールへ進学し卒業。16歳のときに高校の旅行でルアペフ山を訪れたときに山に魅了され登山を始める。20歳でオリヴィア山(1933m)の登頂に成功。エンジニアを目指しオークランド大学へ進学し数学と理学を専攻したが2年で中退する。大学中退後は弟のレックス・ヒラリーと養蜂業に従事する。

ミルト・ジャクソン

1923年、ミシガン州デトロイトに生まれる。デューク・エリントンやカウント・ベイシーを聴き、ジャズに興味を持つ。特にライオネル・ハンプトンの影響を受ける。

トランペット奏者のディジー・ガレスピーに招かれ、ニューヨークへ行き彼のバンドでプレイする。バンドを去った後はセロニアス・モンク、チャーリー・パーカー、レイ・ブラウンらと共演を重ねる。

1951年にミルト・ジャクソン・カルテットをジョン・ルイス(ピアノ)、パーシー・ヒース(ベース)、ケニー・クラーク(ドラム)と結成。翌年にモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)とグループ名を変える。以降はMJQのメンバーとして活動する。

民青同盟

民青同盟の規約で、「民青同盟の目的と規約をみとめ、同盟費をおさめ、民青同盟の一定の組織にはいって学び活動しようとする15歳から原則として25歳までの日本青年は同盟員になることができる。」(第1条)としている。基礎組織(班)での加盟決定と上級機関の確認を経て、加盟できる。運営資金は、同盟員や読者が払う同盟費(一般月額550円、高校生月額250円、減免制度あり)と機関紙代、個人からの募金によりまかなわれている。

年齢上限は弾力的に運用されており、30歳前後まで在籍している同盟員もいる。

グラスゴー

かつてはロンドン、パリ、ベルリンについでヨーロッパで4番目に人口が多く、1960年代には100万人以上いたがその後区画編成などで減り続け現在では580,690人(2007年)となっている。英国国内ではロンドンとエディンバラについで3番目に観光客が多く、年間300万人ほどがこの街を訪れる。15世紀創立の名門グラスゴー大学を擁し、産業都市であるとともに、文化・芸術・若者の街として知られている。英語で「ノルウェー人」や「ノルウェーの」といった形容詞が”Norwegian”であるように、グラスウィージャン(Glaswegian)といった言葉が用いられる。移民が多くかつては工業の街であった背景も影響し、地元の人々の英語はスコットランド訛りの中でも特に難解とされている。訛りが強いだけではなく、グラスウィージャンの方言も使用されている。なお、スコットランド・ゲール語はグラスゴーでは殆ど使用されない。1990年にはEUの欧州文化都市に選ばれている。

日本水平社

「徹底的糾弾」方針をとっていた結成当初の全国水平社では、1923年(大正12年)11月結成の全国水平社青年同盟(いわゆる全水内「ボル派」)が次第に内部で台頭し、南梅吉(全水初代委員長)ら従来の幹部を辞任に追い込んで全水本部の主導権を掌握した。そして1926年(大正15年)の全水第5回大会では「部落差別は政治・経済・社会的側面に基づく」との認識に基づき、軍隊内差別や行政による差別を糾弾し労働者・農民の運動と結合する新方針が決議された。

以上のような「ボル派」の指導部掌握は全水内の右派や「アナ派」との対立を激化させ、彼らの離反を招く結果となった。